1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:05:19.05 ID:IVMcTlaU0

−1−


( ‘∀‘) おっす坊主

 夕陽がゆるやかに流れる川を染め始めた時だった。
 土手を歩いていた僕に、後ろから追い越してきたおじさんが、手を挙げて親しげに声をかけてきた。
 僕の前に出て、その場で足踏みを続ける。ジョギングの途中らしい。

 フードの紐をぴょこぴょこと跳ねさせながら、僕の顔をじっとのぞき込んでくる。
 僕が喋るのを躊躇っていると、おじさんは勝手に話し始めた。

( ‘∀‘) 久しぶりだな。最近見なくてさ。病気になったかと思ったよ

(´・ω・`) ……あの

( ‘∀‘) ひょっとしてもう走るのはやめたのか?


 『シャキン君?』おじさんが続けて言った言葉に、僕は人違いだと言えなくなる。


2 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:07:58.67 ID:IVMcTlaU0

(´・ω・`) あ、はい……

( ‘∀‘) そうかあ……残念だな

 目を落とした次の瞬間には、おじさんは弾ける笑顔で笑っていた。
 笑うと、凄く若く見える人だった。無精ヒゲを剃れば、きっともっと若く見える。

( ‘∀‘) ところで前から聞きたかったんだけど、何でいっつもここで走ってたんだ?

(;´・ω・) え、と……

 僕自身が聞きたかった。
 兄さんがこの土手でジョギングしてたなんて、たった今知った事だ。


3 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:09:36.68 ID:IVMcTlaU0

(´・ω・`) け、健康の為です

( ‘∀‘) ふうん

 およそ中学生らしくない答えに、怪しまれないかとはらはらする。
 でもおじさんは、顎に手を当てて、なるほどなという顔をしていた。

( ‘∀‘) まあ、また走りたくなったらいつでも来て。一人だと寂しくて

(´・ω・`) あ、はい

( ‘∀‘) そいじゃ


4 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:11:07.42 ID:IVMcTlaU0

 声をかけてきた時と同じように手を挙げて、走り去っていく。
 気がつくと、おじさんの背中に、兄さんの姿を重ねていた。

 帰宅部の兄さんは、ほぼ毎日塾に通っている。
 塾が始まるのは六時だから、学校が終わってから少しだけ暇がある。
 その時間にここに来て、あのおじさんとジョギングをしていたのだろう。

(´・ω・`) 兄さん

 夕陽がビルの向こうに沈んでいく。
 青く澄んでいた世界が、血の色を経て、暗闇に覆われていくこの時間。

 かつて兄さんが走っていた土手に、僕は立ちつくしていた。


5 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:11:38.43 ID:IVMcTlaU0




 兄さん、どうして自殺なんかしたの?




¢正解の鍵¢



6 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:13:44.75 ID:IVMcTlaU0

−2−


 僕は学校が嫌いだった。
 といっても勉強が苦手とか、先生が嫌いとかいう類とは別のものだ。

 人の集団が怖かったんだ。集団の中に、自分を置くこと。
 見られる事。期待される事。場の雰囲気を読む事。全てが煩わしかった。

 幼い頃は、他人の目なんて気にならなかった。
 自分がどう思われていようと、まるで無関係だと考えていた。
 変わったのは、物心ついた小学三年生辺りからだ。


7 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:16:44.39 ID:IVMcTlaU0

 『おまえのにいちゃん、かっこいいな』。

 兄さんはサッカークラブに入っていた。
 それは同じクラブに入っている友達から、ある日突然言われた事だ。

 保育園の頃、砂場遊びをしていた僕と、サッカーボールを追いかけ続けていた兄さんとは、運動神経に歴然とした差があった。


(´・ω・`) うん。格好いいでしょ


 家族を褒められるのは悪い気はしなかったが、嫉妬に似た感情も生まれた。
 だって、僕と兄さんは双子なんだから。
 同じ顔なのに、兄さんだけ褒められれば、嫉妬もしてしまう。

 以来僕は、少年野球チームに入り、エースが取れるまで練習に練習を重ねた。
 体を動かす事を知ると、他の運動も出来るようになった。
 尊敬の対象であった兄さんに近づいたかと思うと、自分が誇らしかった。


8 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:17:50.93 ID:IVMcTlaU0

 ところが、小学校高学年になり、成績の優劣がはっきりしてくると、またそれは現れた。
 『ショボンの兄さん、学年トップなんだよな。スゲーよな』。

(´・ω・`) ……

 確かに、スゲーと思った。
 でも、僕に出来ない事では無い気がした。

 少年野球を辞めて、塾に入った。
 兄さんも塾に行っていたけれど、同じ所には行かなかった。

 それは自分のプライドの為でもあるけれど、一番の理由は怖かったからだと思う。
 兄さんと同じ軌跡を辿っている事を悟られるのを、無意識に避けていたんだ。


9 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:19:26.22 ID:IVMcTlaU0

 本格的に勉強を始めると、成績がうなぎ登りになっていった。
 学年トップも狙える。そうなれば、兄さんと同じだ。

 僕はそう思うと、嬉しくて堪らなかった。


 実際には、学年トップは取れなかった。
 そもそも、僕の兄さんは学年トップでは無かった。
 毎日塾通いという、小学生の僕には考えられなかったスケジュールを組んでいた、隣のクラスの委員長の女の子がトップだった。


 それでも僕は満足だった。
 その子の次位が兄さんで、次に僕が並んでいたから。

 『スゲーよな。おまえら』そう言われるようになった。
 兄さんと同じ扱いに、体が打ち震えたのを覚えている。小学校五年の、終わり頃だった。


10 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:22:32.62 ID:IVMcTlaU0

−3−


 兄さんと僕の部屋は共同だ。
 寝る場所は、二段ベッドの上が兄さん、下が僕。

 左の机が兄さんの勉強机で、右が僕。
 その僕の勉強机の引き出しから、小学生の頃の計算ドリルが出てきた。

(´・ω・`) ……

 懐かしさから手に取る。
 前半は計算式が書かれた問題のページ。後半にその答えのページがある。

 問題のページは、書き込みや丸付けの跡がある分、薄汚れていた。
 それに比べると答えのページは綺麗だ。


11 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:24:16.82 ID:IVMcTlaU0

「ショボン。ご飯出来たわよ」

(´・ω・`) あ、はーい!

 階下から母さんの声が聞こえた。

 兄さんが死んでから、母さんは急激に老けだした。
 毎晩リビングで泣いていた。
 体内の水分を全て絞り尽くそうとしている風にも見えた。

 『僕がいるから……』あまりにもいたたまれなくなり、慰めのつもりで母さんにそう言った事がある。
 それを聞いて、母さんは一層泣き出してしまった。


12 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:25:13.63 ID:IVMcTlaU0


 それでわかったんだ。
 僕は兄さんの代わりにはなれないと。

 兄さんの代わりには、値しないのだと。



13 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:27:47.97 ID:IVMcTlaU0

−4−


 学校のみんなは、今はもう以前と変わらずに僕に接してくる。
 兄さんが死んでからしばらくは、僕のことを腫れ物のように扱ってくる人もいた(大人に多かった)。
 けれど時間が経つにつれて、兄さんがいない非日常が、日常となってしまった。

 この世界はまるで変化が無い。

 兄さんが死んだ日も、夜はやってきて、また日が昇ってきた。
 一日一日が完璧な規律を保って、ただひたすら繰り返していく。

 兄さんはその輪から外れてしまった。同時に、僕の世界も止まってしまった。
 道標だった兄さんは、もういないから。


15 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:29:30.12 ID:IVMcTlaU0

 兄さんになりたかった。
 兄さんは、計算ドリルの答えのページだ。
 僕は兄さんという完璧な回答を見て、問題を解き続けていた。

 でも、答えのページはある日白紙になった。
 問題を結ぶイコールの先に、書くことが無くなってしまった。


16 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:33:08.48 ID:IVMcTlaU0

−5−


 遺品の整理は、ほとんど終わっていた。
 あとは兄さんの勉強机の引き出しの中を整理すれば、それで終わる。

(´・ω・`) <あれ?>

 ところが勉強机の引き出しに、一つ開かないものがあった。
 鍵がかかっている。

 僕と同じ机を使っているので、鍵がついていたのは知っていた。
 けれど、僕は鍵なんて使わなかった。
 隠すものが無かったからだ。

(´・ω・`) <日記、かな……>

 隠すとすれば、そういうものだろう。
 兄さんが日記を書いていたなんて、僕は知らないけれど。


17 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:34:56.16 ID:IVMcTlaU0

 どうしようか迷った。子供用の机の鍵だ。
 力を入れればこじ開ける事は出来そうだ。

 でもこの机自体が兄さんの遺品でもある。
 手荒な真似はしたくなかった。

 結局、引き出しの中身は放っておくことにした。
 どうせ机を移動するような事は無いだろうから、そのままでも良かったからだ。

(´・ω・`) ……

 金庫のような頑丈なものでは無いにしろ、兄さんが鍵をかけてまで知られたくなかった事って、何なんだろう。
 少し考えてみたけど、答えは出なかった。


18 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:38:08.00 ID:IVMcTlaU0

−6−


 僕は科学部に入っているけど、最近はずっと休み続けていた。
 どうしても確かめたい事があったからだ。


 それは兄さんの死の秘密だ。
 24時間同じ行動をしていた訳では無いから、兄さんの全てを知っている訳じゃない。
 だから、兄さんと全く同じ行動を取れば、どうして兄さんが死んだのかわかるかもしれないと考えた。

 でも兄さんは、学校が終わると、一人で行動をしていたらしい。
 一緒に帰ろうと誘っても、ほとんど断られたと、兄さんの友達は言っていた。


 ひとまず、学校から兄さんの通っていた塾までの道を、毎日歩いてみる事にした。
 片道徒歩で30分以上かかる道のりだ。
 自転車で行きたかったが、兄さんは歩いて通っていたはずなので、僕もそうした。


20 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:41:02.88 ID:IVMcTlaU0

 すると、初日に知らないおじさんに声をかけられた。
 そこで兄さんがジョギングを始めていた事を知った。

 兄さんの知られざる一面が覗けたと、僕は喜んだ。
 でもそれ以外の発見は無かった。

 ジョギングが死に繋がっているとは到底考えられない。
 他の何かがあるはずだった。


21 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:42:53.49 ID:IVMcTlaU0

 そう信じて、僕は今日も塾までの道を歩いていた。
 兄さんがジョギングしていた例の土手だ。

 右手には少し汚れた川が、左手には背の低い建物が連なっている。
 川辺に舗装されたジョギングコースがある事以外、何の変哲も無い土手だ。

 近くの高校の野球部が、ジョギングコースを走っている。
 軍隊のように整列して走る彼らを眺めながら、僕はのんびりと土手を歩いていた。


22 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:44:45.85 ID:IVMcTlaU0

「よお」

(´・ω・`) あ……どうも

( ‘∀‘) うっす

 あの時のおじさんだ。初めて会ってから、一週間半ぶりだった。
 この人は毎日走っているという訳では無いらしい。

( ‘∀‘) 今日は走るの?

(´・ω・`) いや、僕は……

 『シャキン兄さんじゃありませんから――』そう言えたら、楽なんだけど。

(´・ω・`) 今日はちょっと、体調が悪いので


24 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:46:13.26 ID:IVMcTlaU0

( ‘∀‘) そうかそうか。まあ無理せんようにな

(´・ω・`) はい

 おじさんは、僕が手に持っている鞄をちらっと見て、

( ‘∀‘) 勉強もほどほどにせな、体の前に心が疲れるけんね

 と言った。僕は曖昧な顔で頷いた。
 おじさんは随分と遠くに行った野球部の団体の方を向いた。

( ‘∀‘) 最近な、あいつらここ走るようになったんよ

(´・ω・`) そうなんですか


27 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:48:27.95 ID:IVMcTlaU0

( ‘∀‘) 前は寂しい通りだったけん、嬉しいわ

 こちらを向き直って、

( ‘∀‘) じゃあな

 片手を挙げて、走り去っていった。

 あの人の中で、僕はいつまでシャキン兄さんなんだろう。
 どうして僕は、兄さんじゃないと言えないんだろう。


28 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:50:04.51 ID:IVMcTlaU0

−7−


 進路に迷っていた。少し遠くの附属高校に進むか。
 それとも近くの公立高校に進むかだ。

 附属高校は全国でも有名な進学校で、ほとんどの者が有名私立大学に進学するようなところだ。
 公立高校も進学校ではあったけど、それほど厳しい感じでは無い。
 僕の学力があれば何の問題も無いレベルだ。

(´・ω・`) う……ん

 少し背伸びして付属を選ぶか、身の丈を考えて公立を選ぶか。
 将来という事を視野に入れると、どうしても良い答えが出ない。


29 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:52:13.24 ID:IVMcTlaU0

(´・ω・`) ふう……あーあ

 回転椅子の背もたれに体重をかけると、ぎしぎしと音が鳴った。
 こういう時、兄さんは『うるさいぞ』とよく文句を言ってきた。

 誰もいない隣の勉強机に目をやる。
 この兄さんと共同に使っていた部屋は、決して広いものでは無い。
 僕も兄さんも、いつも狭苦しいと愚痴を言い合っていた。

 でも、不思議だ。
 兄さんがいなくなった今の方が、狭苦しく、居心地悪く感じる。


30 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:54:54.20 ID:IVMcTlaU0

 兄さんが死んだ。
 随分と時間が経った今でも、不思議と現実味を帯びない響きがする。

 『兄さんが死んだ』。
 声に出しても、違和感を覚える。


(´・ω・`) 兄さん?

 空席になった隣の机に呼びかける。誰も応えない。
 兄さんが死んだ事を、頭の中で拒否をする自分がいる。

 通夜も、葬式も、僕は泣かなかった。
 いや、泣けなかった。


 病院の廊下で泣き伏せる父さんを見た時も。
 見慣れない喪服姿の母さんを見た時も。
 兄さんの遺影を持って頭を下げた時も。


31 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:56:16.74 ID:IVMcTlaU0

 みんな泣いていた。
 みんなが兄さんの死を悲しんでいた。

 僕はまだ、一滴の涙も流していない。
 泣いてしまったら、兄さんの死を認める事になるから。

 認めてしまったら、それは僕自身の死でもあるんだ。
 兄さんは僕自身なんだ。

(´・ω・`) 進学するんだ、兄さん

 誰も応えない。

(´・ω・`) 兄さんはどこに行くの?

 誰も応えない。


32 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:57:45.01 ID:IVMcTlaU0

(´・ω・`) 兄さんならどうする?

 兄さんはいない。

(´・ω・`) 僕、わからないや

 兄さんは死んだ。

(´・ω・`) 無視しないでよ……兄さん

 問題だけが溢れる世界で、答えのページは、もう無くなった。
 僕はどうすればいいの。兄さん。


33 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 01:59:29.69 ID:IVMcTlaU0

−8−


 その日、学校が終わると、すぐにジャージに着替えた。
 部活に向かう者たちを尻目に、正門から外へ飛び出す。

 走ってみようと決心したのは、つい昨日だった。
 運動音痴では無かったけれど、体力には自信が無かった。
 野球をやっていたのは小学生の頃だ。
 あの頃よりずっと体は衰えている。


 土手に着くと、何となくあのおじさんを探した。
 元気に走るシャキン兄さんを見せたかったからかもしれない。

 あのおじさんが僕を勘違いしている間は、兄さんは死んだ事にはならない。
 僕の中で、そんなルールが出来ていた。


34 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:01:14.45 ID:IVMcTlaU0

(´・ω・`) <いない……>

 不運にも、土手におじさんらしき影は無かった。
 犬の散歩をしているお婆さんと、野球部の隊列がサイクリングロードを沿って走っているだけだ。

 少しだけやる気がそがれたけど、ここまで来ておいて後戻りはしたくない。
 学生鞄を草むらの影に隠して、軽い準備体操をしてから、走り出した。

(´・ω・`) ふ、ふ、は、は

 二回吐いて、二回吸う。呼吸の規則的なリズムと、足の動きを連動させて、地面を蹴る。


35 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:04:10.47 ID:IVMcTlaU0

 すぐに体が熱を持ち、息が苦しくなってきた。
 一旦最初の場所に戻って、ジャージを脱ぐ。
 それを隠しておいた鞄の中にしまい、体操服一枚になってから、再び走り出した。


 風が肌をやんわりと撫でる。苦しかった呼吸のリズムが徐々に整ってくる。
 走り出した時は伏し目がちだったけど、いつの間にか顔は真っ直ぐ前を向いていた。

(´・ω・`) ふ、ふ、は、は、ふ、ふ、は、は

 自分の呼吸と、足音だけが聞こえる。
 上下に揺れる視界も含めて、それらは一つの動作として働いていた。


 吐いて、踏みしめ、吸って、駆ける。
 どこまでも続きそうな土手を、ただひたすらに、ただがむしゃらに。


36 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:05:43.15 ID:IVMcTlaU0

 吐いて、踏みしめ、吸って、駆けて、掴んで、吐いて、伸ばして、進んで。
 何かを考えて行動を起こすのではなく、行動が思考を支配する感覚だった。

 汗を散らして、風を跳ね返し、走り続けた。
 土手が終わると、くるりと反転し、また走った。


 いつまでそうやっていたのだろう。青かった空は、金色に染まっていた。
 遠くで映える極大の炎は、その姿を赤く変えていた。

 顔を真横に向けて夕陽を見ていたら、目の端で何かが動いたのが見えた。
 顔を戻して、前を見据える。

( ^ω^) やあ

 音と視界を完全に我が物にしていた僕の世界で、彼の姿と声は、奇妙に鮮明だった。


39 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:07:18.74 ID:IVMcTlaU0

−9−


(;´・ω・) はあ……はあ……はあ……はあ……

 立ち止まると、自分がどれだけ疲れていたか、身に染みてわかった。
 呼吸がうまく出来ない。体中の筋肉が痺れて、小刻みに震えている。

( ^ω^) こんにちは

(;´・ω・) こん……にちは……

 膝に手をついて必死に空気を吸う僕に、彼は低くも無く、高くも無い声で話しかけてきた。
 必死に声を出して、返事をする。


40 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:08:28.65 ID:IVMcTlaU0

( ^ω^) ……

 彼は僕の息が整うのを待ってくれているみたいだった。
 どうして声をかけてきたのか、僕に何の用があるのか。

 僕は考える事をしなかった。彼の存在が、ごく自然なものに思えたからだ。
 赤の他人のはずの彼とここで出会う事が、最初から決まっていたような気さえした。

(´・ω・`) 何でしょうか

( ^ω^) 僕はブーンだお。君は?

(´・ω・`) ……


41 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:10:13.85 ID:IVMcTlaU0

 『ショボンです』答えるのは簡単だった。
 『シャキンです』偽りとは思わなかった。

(´・ω・`) わかりません

 自分が誰であるのか。
 そんな誰でも答える事が出来るはずの問題に、僕は手を付ける事が出来なかった。

( ^ω^) 君は誰だお

(´・ω・`) わかりません

( ^ω^) どうして走るんだお

(´・ω・`) わかりません

( ^ω^) 一足す一は?

(´・ω・`) ……二です


43 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:11:12.81 ID:IVMcTlaU0

( ^ω^) 二じゃないかもしれない

(´・ω・`) え?

 夕陽に赤く染まった彼は、優しそうに笑った。
 幼い頃に見た、母さんの笑顔に似ていると思った。

( ^ω^) 何を正解にするか、決めるのは自分しかいないお

(´・ω・`) ……?

( ^ω^) 一足す一は?




(´・ω・`) 二です


44 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:12:14.17 ID:IVMcTlaU0

 ――おまえのにいちゃん、かっこいいな

( ^ω^) どうして走るんだお

(´・ω・`) ……ただ、走りたかったから

( ^ω^) どうして

 ――ショボンの兄さん、学年トップなんだよな。スゲーよな

(´・ω・`) 走れば、何かわかるかもしれないと思ったから

( ^ω^) 何を?

(´・ω・`) 兄さんが、どうして死んだか……


45 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:13:52.35 ID:IVMcTlaU0

( ^ω^) 君のお兄さんは、それがわかっていたのかな?

(´・ω・`) ……どういう事ですか

( ^ω^) わからないから、死んだのかもしれないお

 僕の全ての‘答え’だった兄さんが、わからなかった事?
 想像もつかなかった。
 いや、兄さんがわからない事なんて、あっちゃいけないんだ。

( ^ω^) お前は楽だったろ。答えを書き写すだけなんだから

 相変わらず穏やかな声で、ブーンは言った。
 ただし言葉の裏に、刺々しい何かを感じた。


46 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:15:31.88 ID:IVMcTlaU0

(´・ω・`) 僕は兄さんを尊敬してた。兄さんは僕の目標でした

( ^ω^) じゃあ、君のお兄さんの目標は、何?

(´・ω・`) そんなの……わかりませんよ

( ^ω^) お兄さんも、きっとわからなかった

(´・ω・`) ……

( ^ω^) 考えておくんだお


48 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:18:40.39 ID:IVMcTlaU0

 突然横から吹き付けた風に、目を瞑って顔を覆う。
 『君は誰だ』もう一度聞こえたその声は、頭の中に響いたように感じた。

 風が止み、目を開けた時、既にブーンはいなかった。
 夕陽はもう半分、ビルの海に沈んでいる。

(´・ω・`) <僕は誰だ。僕は誰だ>

 僕に聞いても、僕は応えない。僕はいるはずなのに。
 僕は死んでいないはずなのに。


 『僕は誰だ』誰も応えない。
 『僕は誰だ』誰も答えられない。


49 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:19:54.36 ID:IVMcTlaU0

−10−


 初めてジョギングをした次の日、僕はまたあの土手に立っていた。
 今日は初めから体操着姿だ。少し肌寒いけど、すぐに暖かくなるだろう。

 筋肉痛が酷かったけど、手足は軽かった。
 走り出してから確信する。僕の体は、走ることを望んでいると。

 すぐに体の芯が熱くなる。呼吸が乱れ、手足がもつれてくる。
 それが過ぎると、全てのリズムが規則的になり始める。
 バラバラだった体が、一つになったように動いた。


50 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:21:03.75 ID:IVMcTlaU0

「おーい」

 初めは耳鳴りかと思った。
 それが声だとわかった瞬間、僕は立ち止まった。

( ‘∀‘) おっす! 相変わらず駄目駄目のフォームだな!

 今日のおじさんは、無精ヒゲの代わりに青ヒゲを見せていた。
 剃るとこうなるなら、いっそ無精ヒゲの方が見た目は良い。

(´・ω・`) こんにちは

( ‘∀‘) 久しぶりに一緒に走るか!

 僕は、貴方と走った事は無いのだけれど。


52 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:22:53.14 ID:IVMcTlaU0

(´・ω・`) はい

( ‘∀‘) いよし!

 言うが早いか、おじさんは走り出した。
 僕も慌てて後を追いかける。

 僕の前で、おじさんはひたすら走り続ける。
 年長者のプライドか、ジョギング歴を見せたいのか、わからなかったけれど。
 おじさんは並走する事を許さず、ずっと僕の前を走った。


53 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:24:32.83 ID:IVMcTlaU0

 流石に走り始めの僕と比べると、綺麗なフォームだった。
 まるで走る為に作られた精巧なロボットのようだ。

 おじさんの真似をして、フォームを考えながら走る。
 背筋を伸ばし、脇を締めて、足を上げて、駆ける。

 次第におじさんとの距離が詰まってきた。
 土手を三周する頃には、遂におじさんと並走する事が出来た。

( ‘∀‘) ひゅ、ひゅ、すぅ、すぅ

 おじさんの呼吸する音が、僕の呼吸よりずっと速いテンポで耳に届く。
 僕たちのリズムは全く違っていたのに、何処か重なって聞こえる、命のリズム。


54 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:26:16.13 ID:IVMcTlaU0

 風が心地よかった。
 僕を邪魔するように吹いていたはずの向かい風が、まるで背中を後押ししてくれるみたいだった。

( ‘∀‘) ひゅ、ひゅ、すぅ、すぅ、ひゅ、ひゅ、すぅ、すぅ

(´・ω・`) ふ、ふ、は、は

 僕だけの世界だった土手に、おじさんがいる。
 僕たちは一つの生き物になって、土手を駆け回った。


55 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:27:29.06 ID:IVMcTlaU0

−11−


( ;‘∀‘) お……

 視界の端にいたおじさんが、視界の外へ消えていった。
 立ち止まり後ろを振り返る。おじさんの顔が夕陽に染まっていた。

( ;‘∀‘) もうこんな時間か

(;´・ω・) そ、そう、ですね

( ;‘∀‘) そういえば、塾は良かったのか?

(;´・ω・) 今日はありませんから


56 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:28:42.21 ID:IVMcTlaU0

 僕の塾は別の曜日だ。
 けれど、そういえば、今日は兄さんの塾の日だ。

( ;‘∀‘) 歩こう

(;´・ω・) はい

 赤く染まった世界は、走っていた時と比べると随分と広く感じた。
 今までずっとおじさんと走っていたのに、隣におじさんがいる事が奇妙だった。

( ‘∀‘) 今三年生だっけか

(´・ω・`) はい


58 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:31:04.88 ID:IVMcTlaU0

( ‘∀‘) 来年は高校生だな

(´・ω・`) はい

( ‘∀‘) じゃあ、もう会えなくなるんかね?

 おじさんの顔を見上げる。
 目は真っ直ぐ前を見据えていて、僕の事は見えていない。

(´・ω・`) 高校生になっても、また走りに来ます

( ‘∀‘) 本当に?


60 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:32:49.90 ID:IVMcTlaU0

(´・ω・`) はい。近くの高校に行きますから

 すんなりと出た言葉に、何の疑問も感じなかった。
 ずっと悩んでいた問題、だったはずなのに。

( ‘∀‘) そりゃあ良かった

 青ヒゲを撫でながら、おじさんは子供のように笑った。
 僕も笑った。この土手で、初めて笑えた。

(´・ω・`) おじさん……

( ‘∀‘) 何だあ?


61 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:33:56.95 ID:IVMcTlaU0

(´・ω・`) 僕、ショボンって言います

( ‘∀‘) ……

 おじさんの顔が、こちらを向く。
 目を逸らしそうになるのを堪えて、僕はおじさんを見つめ返した。

( ‘∀‘) 初めまして。ショボン君

(´・ω・`) ……

( ‘∀‘) やっと名前が聞けたよ

 僕の肩に手が乗せられる。おじさんの手は、大きかった。
 本当の意味で、僕たちは出会えた。
 そんな気がした。


62 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:36:21.40 ID:IVMcTlaU0

 いつから知っていたか、とか。
 どうして黙っていたか、とか。

 そんな事どうでも良かった。

( ‘∀‘) またな。ショボン君

(´・ω・`) はい!

 ただ、兄さんがここで走っていた理由が、少しわかった気がした。
 兄さんの世界を、おじさんを通して、感じる事が出来た気がしたんだ。

 僕はそれで、満足だった。


64 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:40:32.55 ID:IVMcTlaU0


(´・ω・`) !

 その時、乾いた金属の音が聞こえた。
 体の奥深くから響いたような気がした。

 ポケットをまさぐると、冷たい感触があった。
 どういうわけか、それが何なのか、すぐに理解することが出来た。
 兄さんの机の鍵だ。



65 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:41:24.88 ID:IVMcTlaU0

−12−


 勉強を終えて、歯を磨いて、二段ベッドの下に潜った。
 目を瞑って、暗闇に潜むように眠ろうとした。

 けれど、寝付く事は出来なかった。
 僕は布団から這い出て、手探りで電気スタンドの明かりをつけた。

 僕の勉強机の上で、小さな鍵が小さな影を作った。
 これを使えば、兄さんが鍵をかけて守った秘密を知る事が出来る。


68 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:44:45.04 ID:IVMcTlaU0

(´・ω・`) 兄さん……

 故人の秘密を覗き見るのは失礼な事だ。
 そんな常識ぶった理屈で鍵を使うのを躊躇ったけど、どうしても気になる。

 兄さんは死んだ。
 今はもう、理解している。理解していると、思う。

 でも何処かで、秘密を知った僕を叱ろうとする兄さんがいる気がした。
 兄さんは死んだ。兄さんはもういない。
 わかっているはずなのに、それでも何処か、引っかかる。


70 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:45:34.96 ID:IVMcTlaU0

(´・ω・`) ……ごめん

 鍵を手に取り、兄さんの机の前にしゃがみ込む。
 引き出しについた小さな鍵穴に、鍵を差し込んだ。
 回すとき一切の抵抗は無かった。カチャリ、軽い音がして、鍵が外れた。


 鍵を差したまま、恐る恐る引き出しを開ける。
 鍵と同じように、引き出しも軽かった。
 中身は空っぽかと思ったが、一冊のメモ帳が奥に押し込まれていた。

 濃いオレンジ色の手帳で、柄の無いシンプルなものだった。
 その色が、土手で見た夕陽と重なった。


71 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:47:12.48 ID:IVMcTlaU0

 手帳を取って、電気スタンドにかざす。
 机の上に置いて、ページを捲った。

(´・ω・`) ……

(´・ω・`) ……

(  ω  ) ……

 所々に小さな染みがついたそれは、スケジュール帳でも、日記でも無かった。


74 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:48:31.80 ID:IVMcTlaU0

 『苦しい』『辛い』『わからない』。
 『寂しい』『助けて』『死にたい』。

 そんな言葉が、メモ帳に書きつづられていた。
 心臓を鷲づかみにされたような息苦しさを感じた。
 兄さんの抱えていた絶望が心に溢れてくるようだった。


 馬鹿だった。僕は何もわかっていなかった。
 兄さんは答えのページなんかじゃ無かった。
 兄さんは必死に問題を解いて、必死に生きようとしていただけなんだ。

 僕と同じだったんだ。迷っていたんだ。悩んでいたんだ。
 道標が欲しかったんだ。
 孤独な世界で、誰かに頼りたかったんだ。


75 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:49:19.24 ID:IVMcTlaU0

 バラバラになった心で、土手を駆けていたんだ。
 一つになれない体で、それでも足を動かして。

(´;ω;`) 兄さん! 兄さん……!!

 白紙のページに、正解かどうかもわからない答えを書き込んで。
 僕は考える事さえしなかった。
 間違えるのが怖かったから、ひたすら兄さんを書き写した。

(´;ω;`) ごめん……ごめんなさい……!!


77 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:50:34.48 ID:IVMcTlaU0

 メモ帳に、僕の涙が新しい染みを作った。
 兄さんは死んだ。その言葉に、もう違和感は覚えない。


(´;ω;`) 兄さん……僕は……!!


 待ち受ける膨大な量の問題に、答えのページは無い。
 それでもペンを捨てる事はしない。
 答えを書くのは僕で、答えを探すのも僕だ。


78 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/17(木) 02:51:14.79 ID:IVMcTlaU0



 兄さん。貴方は死んだ。
 兄さん。僕は生きる。





 生きる!



¢終わり¢



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